(1)
彼女のことなんて、すっかり忘れていた。
「南極には二種類のペンギンがいます。コウテイペンギンとアデリーペンギンです。」
テレビにはペンギンが映っていた。
南極で生活する生物で、二足歩行をするものはペンギンしかいない。だから観測員が作業をしているとふいに、アデリーペンギンから呼び止められることがあるという。
28歳と半年。決めるにはもってこいの年月だ。アデリーペンギンに呼び止められた南極観測隊員のように。複雑な葉脈が、実は単純な形の繰り返しであるように。
全ての回復のために、僕は彼女を思い出そうと思う。
(2)
どこを向いても逆光で、何も見えなかった。
彼女は2コースの飛び込み台に制服姿で立ち、まぶしそうに目を細めながら向こうから泳いでくる寿子のタイムを計っていた。彼女がその夏、なぜ泳がなくなったのか僕は知らない。5コースからフリーの選手が飛び込んだ。スイミングに通っている速い子だった。水しぶきがあがる。きゃっと言いながら彼女は笑って水しぶきから顔を背けた。
僕はその一部始終を目を洗う水道のコンクリートのところに腰をかけて見ていた。
そうときどき、どこを見てもまぶしくて何も見えなくなると思い出すんだった。きらきらさざめくプールの端に立って、水しぶきにきゃっと言って笑いながら顔を背ける彼女を。
俺はすっかり忘れていたんだよ、そのことを。アデリーペンギンに呼び止められるまで、すっかり。
(3)
複雑な葉脈が実は単純な形の繰り返しであるように、俺はあの時、彼女に問わなければならなかったんだ。机の落書きのことを。クラッシックギターのことを。落ちた消しゴムのことを。席替えのことを。チョコレートのことを。何度も送った手紙のことを。返信のなかった手紙のことを。歯列矯正のことを。クラス合唱のことを。転校していった洋平君のことを。折り鶴のことを。最後の大会のことを。あの一年に起こった全てのことを。
俺はずんずんズルくなっていく。俺はあまりにも自分をごまかして生きすぎてしまった。俺は投げやりだ。俺はしらけすぎだ。俺はバカだ。俺は、あまりにもそういうことに慣れすぎてしまった。そうやって自分の気持ちをだましたりすかしたりしているうち、本当の自分の感情が何か分からなくなってしまったよ。
俺はいったい何なのだ?何のために生き、何のために死ぬんだ?何の理想も何の哲学もなく、その日一日がただ終わればいい、それだけなのか?俺は自分が誰なの分からない。そして自分のことを攻撃するのがやめられない。自分を許すことができないんだ。
雪は校庭一面を真っ白にしていた。雪原はきらきら光っていて、どこを向いても逆光で何も見えなかった。僕はしかたなくプールの洗眼用水道のコンクリートに座り、ぼんやりと一面の雪を眺めていた。彼女はきらきら輝く雪原の端で第2コースの飛び込み台にたち、友人のタイムを計っていた。5コースからスイミングに通っている速い子が飛び込んだ。彼女はきゃっと言いながら笑って水しぶきから顔を背けた。
今なら彼女に問うことができるだろうか。でも僕は動けない、あの時と同じように。何を問えばいいのか分からない、あの時のように。
結局、僕はこの冷酷で残虐で狡猾な現実で、無惨で粗末でみすぼらしい生き恥をさらして行こうと思う。そこに僕の理想の姿は無いのかもしれない。しかし、それは何より、僕の決めたことなのだ。僕自身の意志で、決めたことなのだ。答えのない問いへの、僕なりの結論だった。
彼女なら、いつだってあのプールサイドにいる。
アデリーペンギンが呼んでいる。そろそろ時間だ。