(再々)Symptom 20161114(№47)(お萩)

(写真:萩沢写真館)

 

「そりゃみんな違う花を咲かすに決まってる。そもそもが「そういうもの」なのだ。(でも最近は遺伝子操作が可能になったから、「同じ花」というのも実際的には存在するのだろう。)我々には端から「個体差」が備わっている。誰も「誰とも同じではな」く、個体は全て「個性的」なのだ。


我々にはできる限り多く「自分の影響力」を残そうとする「圧」が常にかかっており、そのため他の個体よりもより「目立つ」必要がある。だが、「目立つ」場所で咲くのはとても難しい。「誰もが咲きたいと望む場所」は(個体差があるにもかかわらず)、非常によく似ている。且つ、その場所の広さは有限で、開花できる花の数は決まっている。オンリーワンだかなんだか知らないが、詰まるところ頑張って自分の「個体差」を他の個体よりも、より「目立た」せなければならない。「目立つ」ために高い競争率の場所を目指し、勝ち進まなければならないのだ。


しかしそれにしてもいったい何が受けるのか全然把握できない。努力したって負けるときは負けるし、怠けてても勝てるときには勝ってしまう。どうしてそれが受けてこっちが受けないのか、それがまったく分からない。自分探しなんて言うけども、本当に探すべきものが何かなんて、誰にも分からなのだろう。


結局、昨日はこっち、明日はそっちで、違う!とか、またかよ!なんて叫びながら、あがいて、あがいて、指から血流しながら自分の存在を掻き刻み、「血反吐吐くまでポエる」ことが我々の唯一の存在証明なのだろう。」

 




そう思う長七郎であった。