(再々)Symptom 20160917(№20)(お萩)

(写真:萩沢写真館)



「こんな風に毎晩毎晩、しこしこしこしこと書きつらっているんだけど、書くことって、結局何の意味があるんだよって思うんだよね。
 

どれだけ整理して、細かく具体的に書いても、それが書いてる俺から離れて、読んでる人たちの頭の中で再度、文章として構成されるときにはまるで違う形をしてるんだろうなって思う。いやむしろ「違う形を成すだろう」って思った方が経験上、且つ実際的に見て妥当なんだよね。
 

こっから見れば確かに夜空の7つの星は‘ひしゃく’の形をしているように見えるんだけど、でもそれはあくまでこの惑星から眺めた場合の話で、ほかの天体から見た7つの星は、もしかしたら‘ちゅうすい’の形をしているかもれないし、もしかしたら‘やまねこ’の形をしているかもしれない。いやーたぶん、何の形すらも成してないんじゃないか。ちょっと悲しいけど、そう考えた方がよほど合理的で、それに効率的でさえあるね。
 

それぞれの愛の形も違っている(んだろーね、きっと)。俺のこの愛は、彼女のその愛とは違っている。もし幸運だったら、それは多くの部分が重なっているかもしれない。ほんの少ししか共有できていなという可能性だってあるだろう。それでも、少しでも感情が重複した部分があればそれはまだ幸いってもんで、もしかしたら重なっていると思っていた部分は思い違いで、まったく異なった次元に浮かぶ二枚の平行した感情でだったりするかもしれない。つまりは俺の言うこの愛は、彼女にとっての愛ではないのかもしれないっつーことだ。彼女にとっての愛が、常に俺にとっての愛とは言えないってのと同じみたいに。
 

「それでも、愛するのよ。たとえその確率が何万分の一の小さなものだとしても。それにどんな現象だって、確率的にみれば必ず起こり得るのよ。たとえ何億分の一の確率であっても、いつか私の住む惑星からも‘ひしゃく’が見えるかもしれない。チンパンジーがでたらめにキーボードをたたいて、それが偶然、シェイクスピアの文章の一節になる可能性だって思っているほど低くはないんだし、もしかすると明日、あなたの書きたかったことが世界中の人々にあまねく理解されて、世の中が、パパイヤがいたるところに実る愛と慈しみにあふれた楽園に変わるかもしれない。」
 

いやーだめだね、そんなことはありえない。」