(再)Symptom「パンの話」まとめ(お萩)

(写真:萩沢写真館

 

 

俺はさっきから小一時間ばかりベッドに横になり天井を眺め、マインドフルネスで習ったとおり息を吸ったーり吐いたーりしながらときどきくる疲れ目をマッサージしたり、直接当たるエアコンの風から足をどかしたりして、さて何から始めようかと考えていた。
 

しかしまったくもう四十も過ぎてるっていうのに俺はいったいどうしたらいいのか、逆に年々迷うようになってきています。何が正しいのか、何を目指して歩いて行けばいいのか、何を貫き通すべきなのか。若い頃に持っていた「根拠なき自信」を失った今、戸惑い、迷い、途方に明け暮れています。(まあ、あれは無くしてよかった、あんなもんいつまでも持ってたら恥ずかしいぜ。)これっていつか終わるんですかね?それともこれが「成熟」ってもんなんですかね?なんか若い頃より生きづらくなっているような気さえするんだよ。
 

キリスト教学の先生は言ってたっけ、「おのれの欲することを人にせよ」って(ついでに「仏教国では「されてイヤなことを人にするな」って教える」って言ってた。そのキリ教の先生は日本人なんだけど洗礼を受けてクリスチャンになってた、ちょっといけ好かねえ感じの野郎だった。多分ゲイだろう)。でもこの「教え」を聞く度に、思い出す話があるんだよな。それは小学生の給食の時間、毎日流れていた道徳めいた話だ。
 

パン屋の話だった。パン屋のおかみさんは、毎日コッペパンの切れっぱしを買いにくる、貧乏そうな若い画家のことを考えてるんだ。描いたって絵なんて売れないんだろう、毎日毎日、その画家はコッペパンの切れっぱしばかし買っていった。どう考えてもそのパンは画家の腹を満たすような代物じゃあない。おかみさんは不憫に思ったんだな、ある日、その画家が買っていくコッペパンにバターを塗っておいてあげた。少しでも画家がおいしくパンを食べられるように、だ。そしたら次の日、その画家がおかみさんのパン屋に飛び込んできた。俺を含む40人のベビーブームのガキ共は、画家がおかみさんに感謝して礼を言うために勇んできたのだろうと思ったよ。そのぐらい小学生のガキでも言わんでもわかるぜ、ってな。そしたら次の瞬間、画家は礼どころか店の中でおかみさんに向かって怒鳴り散らしたんだ。「いったいどうしてくれるんだ!!」俺たちはおかみさんと同じくきょとんとしながらその貧乏な画家の前にただ立ち尽すだけだった。
 

どうだい、つかみはオッケー?続きは次回。


その絵描きはコッペパンの切れっぱしを食うために買っていたんじゃない。そいつはコッペパンの切れっぱしを使って、カンバスに描いた線を消していたんだ。もちろんバターなんてついてたら絵はただで済むわけがない。おかみさんの塗ったバターに気づかずにパンを使っちまったんだろう、絵は台無しだ(もっと早く気づけよ)。おかみさんは自分が望むような親切を貧乏な画家に施したんだけど、結局はそれがアダになって絵はダメになってしまった。
 

そんな話だった。いったいこの物語の何を、学校宇給食を与えられているガキ共の教訓にしたかったのかよく分からないが、とにかくバッドエンドのお話ってものに慣れてなかった小学生の俺はひどく驚いた。その話では桃から生まれた子が鬼を退治してはくれなかったし、灰を巻いたら桜が咲いてお殿様を喜ばせることもなかった。
 

呼吸に集中する。息を大きく吸い、できるだけ長く吐く。吸うことに集中し、吐くことに集中する。吸って、吐く。そうするうちは過去に打ちひしがれることもないし、未来におびえることもない。今現在、ここで呼吸をしている俺がいる。ただそれだけが事実だ。