(再)Symptom 「タダノ」まとめ(お萩)

(写真:萩沢写真館)


(1)

タダノは誰にも知られることのないまま、44になった。

人は、どういった物事からも学ぶことができる。どんな苦境においても何かを学習し、それを乗り越えることができる。いかなる病も癒され、いかなる傷も回復する。そして、その先に新たな到達点を見る。

タダノはそう信じていた。

しかし分かっていた。その一方で、無目的に破壊の限りを尽くし、ただただ過ぎ去っていく、まるで嵐のような日々もあることを。経験も、成長も、充実感も、何も得られない毎日。それらは破壊のしるしとして、生涯かかっても埋まらない、虚ろなぽっかりと空いた穴を残す。そういった物事が存在するということも。

タダノの44歳の肉体には、そういった種類の穴が開いていた。

 

 

(2)

全力でコミットすること、情熱を持って取り組むこと、主体的に関わること。保身や損得勘定抜きで、正しさに向かって信念を持って生きる。それがタダノの人生に対する態度だった。青臭く、あまりに駆け引きを知らない生き方だったが、しかしとにかくタダノはできる限り精一杯、真剣に生きた。タダノはそのことを誇りとさえ思っていた。

何か特別なことがあったわけではなかった。

「俺は一体、何をしているのだろう?」それは単純な疑問だった。

 

 

(3)

30代が終ろうとする頃から、タダノはその確固たる生き方に違和感を覚えるようになった。

初め、その違和感は乗車した列車の窓から一瞬、視界をかすめる看板のようなものだった。ちょっと疲れているのだろう。タダノはそう考えた。

しかし、休息をとったにもかかわらず、列車は徐々にスピードを落とし、その看板は読み取れる速さで視界を過ぎるようになった。タダノの歩みは時々つかえ始めた。

いつしか、その看板に目を奪われる事の方が多くなる。タダノは次にどう歩を進めようか迷うようになった。

ついにはその看板から目を離せなくなる。そしてタダノは完全に停止した。

「俺は一体、何をしているのだろう?」 

 

 

(4)

44年の人生を振り返ると、そこに何の価値も見いだせないことにタダノは気づいた。それどころか、そこには多くの「あるべきもの」が存在していないようにさえ思えた。

タダノは精一杯、惰性や誤魔化しに逆らって生きていきた。しかし実際は何も為されてはいなかったのだ。

状況が悪かったのか、周囲の人々に恵まれなかったのか、環境の所為なのか。違う。最もの原因は、タダノ自身の「無能さ」だった。タダノがどれほど懸命に生きたか、そんなことは何の意味もなさない。全ては、その「無能さ」により必然的に導かれた結果だった。

そのことを理解したとき、タダノは停止したその場所にずぶずぶと沈み始めた。それは、タダノが必死で抵抗してきた「日常」という名の泥沼だった。

事実は、44年の間、ただ、タダノ自身が消耗した、それだけだった。

タダノは人生に対する自分の哲学を、更新するときがきていた。

 

 

(5)

「俺的には一生懸命がんばってるつもりなんですけどね。どこまでやったってまだまだ全然ダメダメっすよ。仕事をこなす方法論?みたいなもの?それをゲットできればなあ、盗んでやりたいなあ、とか思ってんのよ。タダノちゃんみたくアンテナ高くして引き出しを増やしていきたいなあってさ。いろいろ教えてやってくださいよ。」

タダノは学生時代の友人に呼び出され、食事を共にしていた。タダノは何も答えなかった。ちら、とその友人はタダノの顔を見、目線は少し宙を泳いだあと行き場を失い、ついには今、フォークにまいていたスパゲッティに目を落とし、バツが悪そうにその続きに取りかかった。

タダノは彼の言葉の運用がひどく気に入らなかった。自信なさげな語尾上がりの口調は、タダノを苛出させた。さらに残念なことに、話しの内容はそれ以上にタダノの癪に触るものだった。

「お前は悩んでなんかいない。深く考えることさえしてない。傷つくことを恐れて逃げているだけだ。本当のことを知るのを恐れているだけだ。知るべきなんだ、お前は「無能だ」ということを。お前は特別なんかじゃない。お前も、お前の見下している他人と同じくらい、「無能」なんだよ。お前は目を逸らしている、お前が本当は何もできないのだということから。自分の「無能」を認めない限り、自分の「無価値」を認識しない限り、現状を変えることはできない。

自分の意見(表現)というものは、たとえそれが稚拙なものであっても、常に苦悩から生まれるという理由だけで祝福されるべきだ。お前は自分を出すことを恐れ、受け売りの情報にすがっている亡者だ。」

タダノは思った。

 

 

(6)

いや、俺だって何も分かっていないじゃないか。本当は俺にできることなんて何もないんだ。俺も所詮、一人の無能者ではないか。俺は救済者なんかじゃない。救われるべき哀れで惨めな、みすぼらしい魂は、俺そのものだ。考えてもみろ。俺に、何かができるわけがないじゃないか。自分で分かっているはずだ。そして実際に俺は、それでいいやと思っている。違うか?

遠くで犬が鳴いた。

そこは砂漠だった。一歩も進まなかった。タダノには進むことが正しいのかさえ分からなかった。歩くそばから足跡は消えた。どこから来たのか、どこへ行くのか、そして何のために来たのかも分からなくなっていた。

大層な理由なんてない。哲学じみた屁理屈をこねたいわけじゃない。ただもう、これ以上、俺は惨めな思いをするのは嫌なのだ。もう、何も降りたくない。もう、何も失いたくない。タダノの望んだものは、それだけだった。タダノはもう、ただ削り取られるだけの時間を過ごすことには耐えられなかった。

犬がニヤニヤ笑っている。何もできないよ。ずっとそのままだよ。だって何もしなくてもどうにかなるじゃない。何もできなくたっていいじゃない。無理するなよ。楽に生きろよ。ふふふ。

タダノの体に空いた穴を、乾いた風が吹き抜けた。