(再)Symptom「ATGCさん」まとめ(お萩)

(写真:萩沢写真館

(彼女の名は、仮に「ATGCさん」としておく。)

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「こんにちは、先生。はじめまして。わたし高校時代、「ATGCさん」と3年間同じクラスだったんですよ。」

山沿いのまだ雪の残る職場を後にし、4月、市内の新しい職場に移った。赴任して3日目の晩に行われた歓迎会の席上、知人どころか顔見知りすらいないその職場で、その時文字通り初めて声をかけられ話をした女性の同僚から出たのがその言葉だった。彼女が同時に名乗った彼女(達)の出身高校は、確かに「ATGCさん」が進んだのと同じ女子高の名前だった。

その名は、はるか昔に忘れてしまったものだった。忘れてはいたけれど、よもや忘れることなんてできるわけがないほど深く、長い間心に刺さっていた名前だった。 


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まだ「男子は技術・女子は家庭科」と授業が分かれていた頃の話だ。男子は隣のクラスの男子と一緒に「技術」の授業を受け、女子は女子でやっぱり隣のクラスの女子と合同で「家庭科」の授業を受けていた。「技術」の時間になると俺たち偶数クラスの生徒は奇数クラスに移動し、その部屋の空いている座席に座って授業を受けたものだった。

ある日、ロータリーエンジンの<吸気圧縮膨張排気>の様子を教師ががなっているのを聞くともなしに(今ではロータリーエンジン自体が過去の遺物になってしまったが)ぼんやり机の上に置いた教科書を眺めていると、ふと、机に鉛筆で縦書きで「こんにちは」と書いてあるのを見つけた。授業に飽きていた俺は何の気なしに隣に「こんにちは」と書いた。

数日後、再び「技術」の授業があり、また男女別々にいつもと違うクラスに集まった(技術の授業で、一般教室で座学の授業があることはそれほど多くはなかったはずだが、なぜかその時期は連続して教室で授業があった。俺はベビーブームの子だったので、生徒数が多すぎて特別教室の数が足りず、一般の教室を使ったこともあったのだろうなと今では思う)。

机の落書きのことはすっかり忘れていた。

しかしやはり授業に飽きて、またぼんやり教科書に目を落とすと机には2つの「こんにちは」の落書き(ひとつは俺が書いたものだ)。そういえば、と思ってよく見るとそこには続きがあった。俺の書いた「こんにちは」に向かって矢印が伸び、「あなたはだれですか?」とそこには書いてあった。俺は当時心酔していた特撮
ヒーローの顔の絵を描き、「私だ!」とセリフを付け足した。

「(絵、)うまいね」「ありがとう」「数学難しいー」「暑いなー」

それから時々、机の上の落書きは増えたり減ったりしていたが、しかし授業が実習の段階になると(エンジンの断面図を木枠で作るという、当時はいったい何を、何のために作っているのか全く理解できない内容だった)、大概の授業は技術室で授業が行われるようになり、その「文通」は終わってしまった。そしてそんなことがあったことを俺はすっかり忘れてしまった。

そう言えば、と思って一度、隣のクラスの教卓の上にあった座席表で自分が座っているのが誰の席なのか見てみたことがあった。それは「ATGCさん」の席だった。 


(3)

「ATGCさん」と同じクラスになったのは中学2年の時だった。彼女は同じ部活(水泳部だった)の女子で、背泳の選手だった。痩せていて、真っ黒な髪をショートカットにした色白な少女だった(しかし背泳ぎのせいで、夏になると顔は真っ赤に日焼けてしていた)。幼い頃に外国に住んでいたことがあり、英語がひどく上手だった。成績がよく、歯列矯正をしていた。

俺は、いつからだったかとにかく彼女のことがもうとても好きで、本当に彼女と仲がよくなりたかったが、しかし俺はどうやったら好きな女の子と仲よくなれるのか、その方法を知らなかった。

その年、席替えで彼女と席が隣になったことが二度ある。一度目は夏休み前だった。その座席に座っている間、彼女と話したのはたった一度だった。


(3)’

再び彼女の隣の席になったのは冬休みが明けてからのことだった。水泳部はとっくにシーズンオフになっていたが、夏の大小の大会を乗り切ったおかげで俺は、初めて彼女の隣に座ったときよりも「ATGCさん」と大分マシなコミュニケーションを取れるようになっていた。(彼女は歯列矯正をしていたのでものを食べながらはあまり笑わなかったけれど、一緒の班で話をしながら食べるの給食は楽しかった。給食の後、彼女は必ず歯を磨いていた。)

しかし「やっかいな後輩」につきまとわれ始めたのもその頃だった。2月のバレンタインデーを前に、俺は部活動の「やっかいな後輩」に好かれてしまった。「やっかいな後輩」はバレンタインデーの日も毎時間、クラスに顔を出しては俺にプレゼントを持ってきたものだった。 


(3)’’

その日、俺は「やっかいな後輩」と出くわさないように休み時間はわざとらしく教室にいないようにした(「モテてるアピール」にもほどがあるが)。「ATGCさん」と話す機会はあまりなかった。

昼休みが終わって5時間目が始まった時、隣の席の「ATGCさん」からそっと、折ったノートの切れ端を渡された(それは定規で丁寧にノートから切り離されていた)。

「私のももらってくれないよね」

そこにはそう書いてあった。彼女の鉛筆書きの字はきれいだった。 


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おしまいから話すと、俺はそれっきり「ATGCさん」と疎遠になってしまった。何が正解だったのか今でも分からない。ただ、俺の選んだ答えはどうやら間違いだったらしい。

手紙を彼女からもらって俺は本当にうれしかった。すぐに、俺は彼女に返事を書いた。ノートの端をきれいに切り取り、「くれ」と書いて折ったそれを彼女にそっと渡す。その日はそれから何も起こらなかった。次の日登校すると、粒チョコレートが入ったハート型のケースを包装紙でくるんだものが机の中に入っていた。それきりだった。彼女はそれ以来、口をきいてくれなかった。

2年生はあっという間に終わり、4月、3年生になって俺はATGCさんと違うクラスになった(その学年は1学年で階が違うほどたくさんのクラスがあった)。部活も引退し、彼女とは別の高校に進学したことでまったく音信不通になった。(もっともそれは俺が一方的に彼女に対してそう思っていただけのことで、彼女にとっては単に「クラス替えがあった」ぐらいのことでしかないということも十分考えられることであるけれども。


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そういえばひとつ不思議な出来事があった。

3年になって部活動も引退し、高校受験をひかえたある日。同じ部活の友人に突然、こう言われたのだ。

「おいタダノ、お前やっぱりモテるなあ?!」あまりにも唐突だったし、そしてもちろん俺にはモテた覚えはまったくなかった。

彼が突然に話し出したのは部活動の最後の大会のときの事だった。(その年、彼女がなぜ泳ぐことがなかったのか、俺はそのわけを未だに知らない)。その日、俺はその大会の自分の最後の種目、平泳ぎの200mの予選に臨むために飛び込み台の上にいた。

俺の名前がコールされると、

「ほら、わっさん、タダノ君が泳ぐよ!応援しなきゃ!!」

と、観覧席にいた彼女の友達の女子部員達が「ATGCさん」を囃したらしい(「ATGCさん」は普段、友達に「わっさん」と呼ばれていた)。それをたまたま同じく応援席でタイムを計っていた友人が耳にしたのだった。

先日、何年かぶりにその友人に会う機会があり、あらためてそんな事があったかどうか彼に聞いてみた。友人はそのことを全く覚えていないという。「すまん、タダノ。申し訳ないんだけど全く何も覚えていないんだ。すまん。」


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断っておけば、俺たちはけっしてキラキラ輝くノスタルジックな思春期を送ったわけではない。懸命に歩行訓練をしているリハビリ中の老人を、屋上のプールから「じじい!」と大声で罵ったり、ジョギングと称しては部活中に近所の荒れ寺へ行き、山門のカゲで落ちているエロ本を回し読みしていたりしていた、どうしようもない薄汚いただのクソガキどもだった。

しかし俺は、確かにクソガキだったけれども、ただ心から知りたいと思うのだ。すさまじい数の過去形の疑問文の答えを。過ぎた日の出来事を全貌を。彼女との思い出の、その本当の姿を。

技術家庭の時間の机での「文通」相手は誰だったのか。あの日、机の中にあったものは一体、誰が何を考えてそこに置いたのだろうか。彼女はなぜ、俺と話すことを止めてしまったのだろうか。部活動の友人から聞いた、「最後の大会の光景」の記憶は、いったい何物なのだろうか。彼女からもらった手紙の正解は、いったい何だったのか。

そして、ここには書かなかった、図書委員会のアンケートの「いえいえ」のことを。彼女に渡したバラの花の思い出とオルゴールのことを。

新しい場所、新しい同僚、新しい生徒達。何もかも新しい職場にやって来て俺は、再び「ATGCさん」の名前を聞いた。彼女は予想もつかないところから30年ぶりにやって来て、そして俺はというと何というかそういう彼女に関する一編のことをわーっと思い出していた。「なぜそんなことを?なぜ今になって?」

俺はずっと長いこと彼女のことを、まさに何度も夢に見てしまうほど、そして彼女のことを考え時間が過ぎてしまう程、とても彼女が好きだった。そんな時期がやって来ては去り、去ってはやって来るということを繰り返していたんだけれども、しかしもはや30年前のあのとき、中学生だった俺たちに何が起こったのかを知る者なんて誰もいないんだろう。時は不可逆である。このことを深く胸に刻み、疑問を抱えて今日を生きるしかない。それっていうのは結局、まったく見知らぬ場所で突然、よく見知った名前を耳にしたり、ある日急に、お互いを想い合っていると考えていた人と音信不通になってしまったり、あったと証言した友達がそのことをまったく覚えていなかったりするような、そんなようなことなのだろう。