Symptom 20171101(№101)(お萩)

(写真:萩沢写真館)

 


「たなかためのぶ」の口癖は、「あ、あいつ俺教えた」だった。

別段、たなかの授業を選択して選んだわけでない、単にたまたま偶然振り分けられたに過ぎないクラスの生徒達を、彼はまとめて「教え子」と呼んだ。

いや、下手すると授業で教えてすらない、「ただ学校に在籍していた」というだけの生徒のことさえ、彼は「教え子」と呼ぶのを好んだ。

無自覚だったが、たなかはこの「教え子」いう言葉が大好きだったのだ。本当に好きで好きでしょうがなかった。

「教え子、教え子」と言う度にたなかは、得も言われぬ快感(主に優越感)を感じていた。たなかは61歳になる。

昨年定年退職し、今年、定年前と同じ職場で再任用された。再任用されたが、授業は今までと特に変化はない(「帳簿のつけ方はいつまでも変わんねからよ-?!」彼は商業の教員だった)。

授業のないいわゆる「空き時間」は、専ら写経をして過ごすが、もちろんそれは職務とはまったく関係ない。

定年になる2年前に進路部長になったのだが(そしてそれは田中が職場で就いたもっとも職責の高い地位だった)、進学推薦会議の時の資料で肝心の「評定平均値」の計算を間違い(その順位を元に推薦の優先順位を付ける、という会議である)、会議に居合わせた若手にさんざんなじられ、それが嫌で辞めてしまった。

最後の2年間、たなかは特に責任のある立場にも就かず、担任もせず、今まで使った教材をただ、順繰りに生徒に見せて、教員生活を終了した(でも会議では、存在感をアピールするために本筋から離れた「質問」とか「確認」とか、もうそれすらないときは「今まではこうだった」というのを一通りごねて、出席者達をうんざりさせた。それらは単に、会議の時間を長くしてるだけだった。)

「たなかためのぶ」の会話のパターンはいつも決まっていた。
1)他人が何かを話しているところに交じる。
2)主語を「私は」に置き換え、発言する。
3)会話を「私」(もしくは「私の教え子」)の話で乗っ取る。
たなかの会話を省略して書くと、「私が私が私が私が」、「いえいえ私は私は私は私は」、「いや私なんて私なんて私なんて」、「そんなそんな私だって私だって私だって」という具合である。

たなかは何の会話にでも首を突っ込んだが、自分ではそれが博学な印、人生経験豊富な証だと思っていた。