(再)Symptom 20161003(№28)(お萩)

(写真:萩沢写真館)

 

 「詩と写真6 2016」

(4)

その夢を見た日、僕はそんなことを思い返していた。そして同時に奇妙なものを感じた。僕は何かを見のがしているのではないだろうか。僕が見たものは単なる夢ではなく、何かの暗示ではないのだろうか。僕は、何かを望まれているにもかかわらず、果たすべき何かを実現していないのではないだろうか。僕は、言うべき何かを言い忘れているのではないだろうか。
 

仕事から帰ると、僕は年賀状や手紙を突っ込んでいる箱をひっくり返した。そして彼女から届いた手紙を取り出し、かろうじてつながっていた最近のほんの数通のやりとりを並べてみた。
 

そこには、軽井沢のホテルに就職が決まったこと、何かちょっとした交通事故のようなものに巻き込まれてしまったこと、その結果仕事を辞めたこと、休養期間を経て新冠のホテルに再就職したこと(観光案内のパンフレットが同封されていた)、仕事が休みの日には乗馬などをして生活をしていること、そんなことが書かれていた。
 

僕は、思いがけず彼女の近況に囲まれていることに気がつき、驚いた。彼女がどんな職場を選んだのかも、彼女が事故にあったことも、そのせいで職を変えなければならなかったことも、僕にとってはただ繰り返される日常の出来事の一つでしかなかった。しかし、よく目を凝らして「彼女」のことだけを見つめると、そこにははっきりとした一つの「流れ」があった。それは彼女の人生だった。
 

北海道の手紙の住所に出した年賀状が、宛先不明で戻ってきたのが最後の便りだった。馬に乗って微笑む写真とともに、彼女の行方はぷっつりと途絶えた。そういえばこの、手紙を突っ込んでいる箱も、彼女が転校した春に僕の誕生日にプレゼントを入れて送ってきてくれたものだった。僕は、何かとても重要なことを見過ごしているのではないだろうか?プレゼントはいったい何だったっけ?今では過去の様々な記憶の詰め込まれた箱だけが、その出来事を確認する唯一のなごりだ。彼女の手記だけが、彼女の人生のただ一つの証拠だった。