Symptom 20170313(№80)(お萩)

 

 

 近親者や愛するものの死に出くわしたことがほとんどない所為か、僕は死についてあまり深く考えたことはない。死がもたらす絶望感を味わった経験がほとんどないのだ。

 

 祖母が亡くなったとき、僕の母親と叔母は彼女の亡骸にすがり、納棺直前まで祖母の名前を呼び続けた。僕にはその心境が分からなかった。(今でも理解はできるが、本当の意味では分からない。)

 

 

 

 死という圧倒的な絶望がもたらす苦しみよりも、生きているものからもたらされる少しずつの落胆の方がより苦しく感じるのは、やはりそんな「死」の経験の不足のせいなのだろうか。

 

 死は絶対であり、そこにはもはや取り返す余地はない。しかし生者によってもたらされる落胆や後悔は、今現在でも、もしかしたら「(それに対して)何かまだ自分ができることがあるかもしれないというのに」という後味の悪い感覚を残す。

 

 「死」の前では、僕は完全に無力だ。僕にできることは何もない。その無力さは「生」によってもたらされる苦い後悔と対照的に、諦めの感情を伴い僕をほっとさせる。

 

 

 

 正直に言うと、彼女が実はもうすでに2年前に死んでしまっていると聞いたとき、僕が得た感情は「安堵」だった。僕はもう、彼女に会うことはない。

 

 もし彼女が生きているならば彼女に会う努力をすることができる。話をしようと試みることもできる。しかしもはや彼女はもういないのだ。彼女は去った。だからそこに、僕の努力する余地は一片も残されてはない。

 

 絶望と安堵。それが僕の死について抱いている一般的な概念だ。