(写真:萩沢写真館)
(つづき)
たなかためのぶの中心を成しているものは幼児的な全能感だった。
たなかは、「何でも自分に関係がある」という奇妙な自己中心性に取り憑かれた人物だった。
実際、彼は何の話にでも首を突っ込んできた。たなかのもう一つの口癖は「なになになになに、何の話?」だった。
そうやって首を突っ込んできたにもかかわらず、しかしそこにいささかでも責任ややっかいごとが生じそうになると、「俺しらねっちゃ」といとも簡単にその件との関係を拒んだ。
たなかは全能感にあふれた人物だったが一方で、軽薄で無責任な男だった。
たなかの「自分より年若い者へに対する優越感」は単に、「先にそこにいた」という、考慮に値しないものに根付いていた。
この世において、なぜなら自分のほうが先に存在していたのだから、自分より遅く生まれた者はすべからく自分に「敬意を払うべき」だ。
彼は無自覚にであるがそう考えていた。そういう考え方の持ち主だったのだ。
彼には、彼の後に続く(そう「見える」だけであって、実際はそうではないのだが)無限の「教え子」たちが見えた。「教え子」たちが列を成して、彼を「先生、先生」と呼び親しんでいるのが見えた(もちろん、そう「見え」ているだけである)。
一方でたなかは、とにかく認めてほしかった。
無自覚ではあったが、彼は他人から認めてほしくて認めてほしくてどうしようもなかった。
もう何というか大まかに言えば、彼は他人から認めてもらえれば後の大抵のことはどうでもよかった。
とにかく認めてもらいたい、それだけだった。
そのことでたなか以外の人が認めてもらえなくなるような事が起ころうと、彼にはそんなことまったく関係がなかった。
とにかく自分が、認められたかった。
彼は言うなれば、とにかく「イイネ!」が欲しい、「うまいこと」が言いたい、承認欲求に飢えた愛情乞食だった。
たなかよしのぶは、生まれて産声を上げるままに年老いた、イノセントな赤ん坊だった。